言葉の暴力 – 東京大学大学院修了の高校教諭の事例

画像 言葉の暴力

(この記事は、当時の私の記憶を振り返って、現在そして未来への教訓とするために書かれたものである)

私の高校時代、国語の教諭で東京大学で哲学を専攻(修士)した人物がいた。

ある日の授業、「日本に原爆を落とされたことをどう思うか?」と題してクラス40人、一人ひとり立たせて意見を言わされる時間があった。順次「いけないことだと思います」「あってはならないことだと考えます。なぜなら…」との意見で進んでいた。教諭も一人ひとりの意見にうなづき、それぞれにもっともらしいコメントを返してた。

ある男子学生の番になり、「自分は肯定します。なぜなら戦争が早く終わったから。落とされていなければ、もっと多くの日本人が犠牲となっていました」と答えた。

と、それまでニコニコして終始ご満悦に浸っていた教諭が急に血相を変えて、その男子学生の日本人観、欧米観、論理的思考力、語彙力をあげつらい否定し始めた。その間、学生には意見を言わせない。言わせる機会も与えられなかった。男子学生はそのまま立って聞いている。

さらに、男子学生が野球部に所属しているのを聞き出すと、「君はどうせ球拾いレベルの部員だろう」「君のような部員がいてはきっと戦力にならないだろう」「そんな思考力ではチームは…」と云々。そして、あろうことか人格否定を始めた。人間性の否定、友人関係、親子関係を貶めるような発言。私が男子学生の立場であったら、(今でこそある程度の度胸はすわっているが)、教諭の言うことを真に受けてしまい、自分は人としての考え方に誤りがあるのだから生きている価値はないのだと判断し、その後の行動はどうなったか分からなかったであろう。

しかし、その男子学生は、(私との仲は悪くはなく、むしろ気さくに話し合う仲であった)、案外ケロッとしており、着席を命じられても、自分の意見そして自分の意見を曲げずに堂々と教諭に対して発言していることになんの後ろめたさも感じていない様子であった。むしろ、自分の意見を言うことに(内容はともかくとしても)自己の存在は当然のように認めるべきであり、たとえ異なる意見であっても、何故、正当な議論の展開を経ることなく、一方的に否定されているのか疑問に思っているようであった。

その男子学生の意見は、一般的な日本人の意見ではないかもしれないが、同じ意見を持つ日本人はいること、そして米国人の半数は「日本に原爆を落として良かったのだ。あれは、”正義”の戦争だったのだから」という認識でいることをメディアが報じているのを、私も見聞きしたことがあるのだ。むろん、メディアが日本人の国民感情をたきつけている節もあり、米国人の率直な見解を単純に知らしめただけだというメディアの基本姿勢に則った行動であるとも受け止められよう。しかしながら、教諭が、いまだ勉強途中であるはずの学生に対して意見を再び述べさせる機会を与えなかったことについては、いまでも当時を振り返って憤りを感じる。画像 言葉の暴力-下書き

私は、その教諭に対しては個人的に思うことはなく、むしろ図書委員の活動(私は3年間図書委員として活動し、3年次には広報班の班長を務めていた)で面倒を見ていただいたことがあり、担任でないのにもかかわらず「君はもっと勉強しないと駄目だ」と檄を飛ばしてさえもしていただいた。しかしながら、やはり公衆の面前においてテーマに沿った意見に関して議論をすれば済む話であるにもかかわらず、人格否定に話を飛躍させるのは、大人のすることではないと思う。ましてや”球拾いのレベル”かどうかは原爆に対する見解とどう結びつくというのだろうか?

たとえ議論の相手が立場の上の人間であっても、その男子学生のように臆することなく意見を言える世の中になればよいと思っている。やはり、依然、日本社会は上下関係を利用して立場の上の人間が反対の立場にある人間を何の脈絡もなく、頭ごなしに否定し、ときに恫喝する場面が多々見られる。教育現場だけでなく、労働の現場であっても、現在のように風通しの悪い日本社会が30年以上停滞しているのは、一部政治家らが悪いだけでなく、こういった草の根の上下関係の修正が行われていないことも、その原因の一つであるように思うのである。

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